私は、元々歴史が好きなので、不動産の歴史ってどんなものなのかを調べてみました。
昔から土地っていうのは、人々に密接に関わってきたものです。
今回は読み物、ストーリーとして読んでいただければ幸いです。
645年に「大化の改新」で公地公民制によって農地を人々に貸し与える制度が始まります。
土地を与えられた人々は、農地からの収穫物(主に米)を、現代の税金にあたる「祖」として、政府に収めるというシステムがスタートした。
班田収授法といいます。
この頃は、私有制は認められておらず、相続や売買は出来ず、亡くなった方の土地は朝廷に返却されていた。
しかし、このシステムでは分け与える公地が不足したり、偽籍が増えたり、負担の重さで逃げ出す者が続出したりして実施が困難になっていきました。
およそ80年後の奈良時代には「三世一身法」が発布され、開墾した土地は三世代の私有化が認められるようになった。
しかし、開墾する労力と私有化できる期間が見合わなかったり、三世代目になると耕地を放棄するものが続出し、これもなかなかうまくはいきませんでした。
更におよそ20年後「墾田永年私財法」が発布。
新たに開墾した土地は正式に私有化できるようになった。
このことで、貴族や寺社が財力を元手に土地の開墾をどんどん行い、私有地の拡大を行っていきました。
貴族や寺社が開墾した広大な土地には管理や倉庫の意味合いで建物が建てられた。
これを「荘」と言い、特定の荘の管理地が「荘園」となった。
荘園は、政府に対して税を納める義務があり、管理するための経費もかかり荘園経営は意外と大変なものであったらしいです。
そのうち、有力貴族たちは時代柄政治力を大きく持つようになり、
自分たちに都合の良い制度を作ろうとしていきます。
所有している荘園にかかる税を免除する「不輪の権」を自分たちの荘園に与えるようになりました。
こうすると何が起きるかというと、それにあやかりたい地方の豪族たちは、開墾した土地を有力な貴族たちに寄進し、自らは「荘官」という役職で税を免れながら、実質的には土地を支配するという動きが起こっていきます。
一方、地方の税を徴収するために派遣された「国司」の権力が強まり、地方の豪族は国司の配下へとなっていくようになります。
この頃から、地方の荘園では土地を守るため武力を強めていくようになり、
農民の中から腕力の強い人等が、隣の荘園との争いなどで武装するようになり、「武士」が誕生する。
武士はより強い武力を求め、「権威づけ」というものが必要になり、地方に残った国司、貴族の血筋を持つ棟梁が誕生します。
次第に武士団が形成され、「平氏」「源氏」が筆頭となっていく。
室町時代の「応仁の乱」によって、荘園は武士に横領され、荘園制は事実上の崩壊となっていきます。
その後、戦国時代へと入り、戦国大名により領地の農耕地を調査して年貢の量が決められていきます。
土地は重層的な権利関係が存在し、戦国大名やその家臣のものとなった。
その後、豊臣秀吉により「太閤検地」が成され、全国が統一した基準で税金を取り立てることが出来るようになった。
秀吉の没後も江戸幕府が太閤検地を引き継ぎ、土地制度の基本ルールが定められていきます。
ルールは次のようなものがありました。
・農地の所有者は自らその土地で耕作するものとする。
・所有者は納税義務を負う。
・耕作内容が規制され目的外の使用は禁止。
・売買禁止。
・耕作者の移動禁止。
・土地所有者と所有地についての記録を土地台帳に整備。
こうして、一土地一所有者が公的に記録され、現代につながるであろう土地登記の原型が出来て行った。
しかし、農民たちからするとまだまだ不自由で何とも良くなったとは感じにくい内容ですね。
江戸時代になると、農地に関しての情報がリスト化され、管理されるようになりました。
一方で、農地以外の土地は所有権も認められておりました。
農地は「田畑永代売買禁止令」により売買禁止を命じられていましたが、町人地などでは活発に土地の売買が行われていました。
売買取引は、名主の家で行われるのが一般的で、名主は取引台帳を保管しており、取引内容を記録していました。
土地は金融担保として活用されることもあり、「沽券」という所謂権利証を質に入れてお金を借りる、というようなことも出来ました。
「口入業者」と呼ばれる物件仲介業者も居たそうで、仲間同士の情報で形状、収益、価格等を共有する書類も整備していたようです。
取引が成立すると「仲介手数料」が支払われていたという事で、
まんま現代の不動産仲介会社ですよね。
この時は、税率や手数料などの明確なルールはなかったらしいです。
江戸には人が密集していました。
なので、狭い土地に多くの人が住めるように「長屋」形式の家が多く建てられ、
所有する土地に町家を建てたり、町家を建てる人に土地を貸したり、
所謂、賃貸業も成立していました。
「家守」という賃貸管理業も存在していたそうです。
この家守が「大家さん」と呼ばれており、当時はオーナーの事ではありませんでした。
明治に入り、ようやく土地の売買が全国的に認められるようになりました。
「地所永代売買を許す」との発布があったのです。
その翌年には「地租改正」が行われ、私的所有権が認められました。
当時の日本は、明治維新で様々な改革が行われ、不動産業に関しての条件なども整備されていったといえます。
今までは、農地に年貢という形で、米の収穫量をベースに米や銭の納税を行っていました。
しかし、これでは農地にしか課税ができないことになってしまうので考えられたのが「地租」です。
土地そのものに課税するという考えが生まれたのです。
そして、今まで各地の大名が所有していた土地を「廃藩置県」により、
大名の権限を消滅させ、新政府が人民に土地を与え、納税させる制度に変えられました。
更に、地租改正が行われると、土地所有権は「私的所有権」の性格を帯び、それによって土地の売買自由化に移行していきました。
明治期前半の国家財政は地租に頼り切っていた状態だったそうです。
1884年には土地台帳が作成され、1960年に土地台帳は登記簿の表題部に反映されていきます。
1889年には「大日本帝国憲法」が公布され、選挙制度が創設されましたが、
「直接国税15円以上を納税する25歳以上の男子」に選挙権が与えられました。
この頃の納税者はほとんどが「地主階級」です。
地主階級の発言力や影響力が高まりました。
日本は産業革命期になり、
大規模な工場建設をする用地買収も必要であり、鉄道網の構築に公共用地の為の「土地収用制度」も必要で、なおかつ用地買収に際して適正価格に基づく補償も必要になり、その辺りが整備されていきます。
この頃には、不動産質権、抵当権が民放に反映されたり、
登記法の制定により、土地と建物を別に登記する方式になったりしていきます。
どんどん現代の不動産の体を形作っていきます。
1919年には「都市計画法」「市街地建築物法」が制定され、都市計画区域の設定と「用途地域制度」の導入が行われた。
次第に、都市開発のルールや建築物の計画的な配置が進み、近代日本の姿が形成されていきます。
不動産業の先駆者といえば、東京建物です。
住宅、商店、倉庫、事務所、工場、旅館などの建築工事を長期の分割払いで請け負うという、
「日本で最初の住宅ローン」と言われるものをPRしたのです。
他の銀行は元々農工業を育成する目的で作られていたが、この動きにより不動産抵当金融機関の必要性がクローズアップされるようになりました。
東京建物の割賦払いによる建設請負事業は、不動産金融の先駆的行いだったと言えます。
今回は、不動産の歴史について書いていきました。
実は学校で習っていたあれが不動産に関連してくるとは、と意識してなかったこともあったと思いますが、
歴史において土地というのは常に重要な意味合いを持つもので、もっと細かく話を調べていけば更に歴史と不動産のつながりを面白く感じられるかもしれません。
続きや番外編もまた書いていこうと思いますので、是非また読んでいただければと思います。
では、また。